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三菱重工野球部、現在活動中のチームについて~広島、名古屋、長崎、神戸

三菱重工三原硬式野球部は解散してしまいましたが、三菱重工の野球部はその他に、名古屋、神戸、広島、長崎と存在しています。ここでは簡単に各野球部をプロ野球選手の情報を中心に紹介していきたいと思います。

○三菱重工野球部名古屋

大きな実績としてあげられるのが1961年都市対抗野球で準優勝、2007年、日本選手権で同じく準優勝です。都市対抗野球には23回出場、日本選手権には7回出場しています。

名古屋出身の主なプロ野球選手は北村照文、高木勇人ではないでしょうか。

高木は最近の選手なのでご存知のファンも多いと思います。巨人で活躍している高木も三菱重工野球部出身者です。ドラフト3位での入団など簡単にプロに入れたわけではありませんが、そういった経験が今に生きているとなると三菱重工時代は無駄ではなかったと思います。

北村についてはセンターゴロを記録させたことがあるなど、守備に定評があり、ダイヤモンドグラブ賞を2度受賞しています。また阪神在籍時に北村にもちろん応援歌があったのですが、強肩で守備がうまいセンターということで、その応援歌が新庄剛志に受け継がれました。走りにも定評があり、まさに日本人が好きなタイプのプロ野球選手像を体現した選手だっと言えるでしょう。余談ですが北村は78年の都市対抗野球1回戦で史上初のサイクル安打を達成しています。

○三菱重工野球部神戸

神戸の野球部も名古屋の野球部も同様、都市対抗野球、日本選手権ともに準優勝が最高成績です。ちなみに都市対抗野球は1970年、日本選手権は97年です。出場回数はそれぞれ31回と21回。常連ではありますが優勝まではたどり着けていません。

神戸野球部が輩出したプロ野球選手で外せないのは、五十嵐英樹でしょう。

デビュー戦で押し出しを出して負け投手となるという最悪のデビューを果たします(しかもサヨナラ負け)。

その後先発やリリーフを経験し、一番の見せ場は1998年。みなさん当時横浜が優勝した時のことを知っていますか?前年7年ぶりAクラスとなり、

「マシンガン打線」

なんていう言葉ができました。その際の抑え投手である佐々木主浩はプロ野球ファンなら誰でも知っているでしょう。じゃあその前のセットアッパーは?これを知っている人は結構コアなファンだと思いますが、それが、五十嵐英樹です。今でも横浜のスコアラーとして野球に携わっています。

○三菱重工野球部広島

三菱重工広島野球部は1979年に都市対抗野球で悲願の初優勝を果たしました。

その他に日本選手権では1974年、2013年にはそれぞれベスト4を記録しています。

同じ広島に三原野球部がありましたが、解散したため広島の期待を一手に引き受けています。

三原と違いプロに入ったのは3選手のみ。その中でも最も注目される選手が磯部公一選手でしょう。

磯部はもともと捕手だったのですが、盗塁をさせないことにより外野手にコンバートさせられました。

しかしこれが大当たり!2001年には中村紀洋、タフィー・ローズとともに最強クリーンナップを結成。打率.320、本塁打17打点95と最強の5番打者として恐れられ、パリーグ優勝に大きく貢献しました。

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その後はそこまで奮った成績を残しませんでしたが、楽天の初代選手会長及び主将となる。そこで再び息を吹き返し、オールスターではファン投票で出場するに至りました。

○三菱重工野球部長崎

三菱重工業が保有する5つの野球部の中で(三原野球部が解散したため現在は4つですが)一番の古株が長崎野球部です。1917年に創部され長い歴史を持っています。

しかし都市対抗野球では1991年と1999年の準優勝が最高成績で優勝はできていません。一方日本選手権は2001年に優勝しています。

一風強そうに見える成績ですが、この地区はJR九州が強く都市対抗野球に初出場を果たしたのは1975年と出場するのにかなり時間がかかりました。

長崎野球部のスターといえば杉内俊哉でしょう。杉内はいわゆる松坂世代で1回戦ではノーヒットノーランを達成するも2回戦では横浜高校に惜敗。大会後には高校日本代表になり、松坂、新垣、村田などと言った錚々たるメンバーの中アジア選手権で優勝します。

高校卒業後は三菱重工業長崎野球部に入り、シドニーオリンピックの日本代表に選ばれました。

2001年には日本選手権で優勝。ドラフト3位でダイエーホークスに入団しました。

杉内と聞いて真っ先に浮かぶのは、ロッテにボコボコにされ2回7失点を食らった際ベンチを殴り骨折したエピソードでしょう。しかしその熱さが翌年沢村賞を獲得する原動力となったのでしょう。

中継ぎエース

面出哲志(近鉄、阪神)三菱重工三原硬式野球部|選手紹介

三菱重工三原硬式野球部から出た最後のプロ野球選手が面出哲志(めんでてつじ)です。

面出哲志は崇徳高校で選抜大会に一塁手兼投手を担いました。その後はピッチャーとしてプロの道へ繋がる模索するも厳しい道のりでした。

○面出哲志が入学した崇徳高校について

面出哲志は選抜大会で優勝したことのある崇徳高校に入学しました。崇徳高校は硬式野球部だけでなく、ラグビー部、軟式野球部も全国区です。特に軟式野球部は、恐らく軟式野球史上最も注目を浴びた延長50回の死闘を中京高校と競演しました。この二校の死闘によりタイブレーク制度を設けるなど軟式野球部のルールすら変えてしまったほどです。

しかし、一番注目を浴びているのは硬式野球部でしょう。1976年に選抜大会で始めて全国制覇した際には、あまりにもヒットを打つ打線に対し、毎日新聞などのメディアが

「爆発打線」

とつけたほどです。

面出哲志は高校時代一塁手(ピッチャーもやっていましたが)として活躍し、選抜大会に出場を果たしました。社会人に入ってからはピッチャーに専念する形でプロを目指すようになりました。

○プロに入る前どころか、社会人の門を開ける際で既に苦労をしていた

大抵プロ野球選手になろうという社会人野球選手は常にトップクラスにいて、常にプロのドラフトにかかるかかからないかという当落線上にいるイメージを持たれがちです。

しかし面出哲志は、この社会人の門を開けるときですら苦労をしました。

というのも、高校卒業後に決まっていた大昭和製紙が11月に野球部の休部が決まるなど、いきなり出鼻をくじかれる形となったのです。

面出はなんとか神戸市内の阿部企業に就職し、2年目にはチームでクローザーを任されることになりましたが、夜勤に回らなければいけないなど練習を満足にできる環境になかったため、約2年半で阿部企業を退社することになります。

その後野球に打ち込むことができる環境を求め、三菱重工三原硬式野球部に入部したようです。

○三菱重工三原硬式野球部からプロへ

三菱重工三原硬式野球部に入った面出哲志は大幅な肉体改造に取り組みました。ウエイトトレーニングを行い体重も8キロ増やすなど、常にプロへの夢を持ち続けました。

1998年はチームとしては都市対抗野球に出場することはできませんでしたが、NKKに補強される形で出場することに。1回戦でJTと対戦し勝利投手となりました。

その年のドラフト会議で近鉄から4位指名を受け、面出哲志は念願のプロ野球選手になることができました。

近鉄では即戦力として期待され中継ぎとして起用されましたが、目を見張るような活躍はできず、2000年のオフにトレードという形で阪神に入団。サイドスローに転向するなど試行錯誤しましたが、そこでもこれと言った成績を残すことはなく、その後2年でプロ野球界での短い生活に幕を閉じることとなりました。

中継ぎエース

その後三菱重工三原硬式野球部は解散したため、三菱重工三原硬式野球部は多くのプロ野球選手を輩出してきましたが、面出哲志が三菱重工三原硬式野球部から出た最後のプロ野球選手となりました。

坊西

坊西浩嗣(ダイエー)三菱重工三原硬式野球部|選手紹介

坊西浩嗣は岡山南高校で4番、キャッチャーとして活躍、選抜高校野球ではベスト4にチームを導くなど将来を有望された選手でした。岡山南高校は県立高校ながら、岡山県では強豪校で、元南海の高畠、元巨人の川相などプロ野球選手を10人も輩出したチームです。

坊西浩嗣は184センチ、85キロという恵まれた体格も持っていました。しかしいきなりプロに行けたというわけではなく、高校卒業後は三菱重工三原に所属することとなります。

坊西浩嗣の同期には野村貴仁がいて1988年に都市対抗野球に出場しました。

1990年にプロに入るものの、ドラフト外という形でダイエーホークスになんとか引っかかったという形で入団しました。

○ダイエーホークスに入団したものの

しかもそこでいたのは吉永幸一郎、城島健司と言った日本を代表する捕手たち。ブルペンが坊西浩嗣の主戦場となってしまいました。

坊西浩嗣のプロ初出場は1991年に代走としての登場でした。先発出場はその約三ヶ月後でしたが、その試合では一本もヒットを打てず、チャンスを逃したかと思われました。しかし次の日もチャンスが巡ってきて、工藤公康投手からヒットを打っています。

坊西浩嗣がホームランを打つのはさらに6年後。デニー友利からホームランを放っています。初本塁打までの日数を考えると打撃がダメかと思いきや、実は打撃には定評があり、1999年、2000年には左の代打の切り札というポジションを得てリーグ制覇に貢献しました。

坊西

特に2000年のシーズン終盤には代打成功率4割という驚異的な数字を残し存在感を示しました。

また2000年は守備でも城島健司が怪我をした期間代役を見事に果たしました。

2002年の9月に出場したのを最後に、2003年に現役を退きました。

坊西浩嗣の最終的なキャリアは558打数、104安打、.208、3本塁打、51打点でした。

○引退した後も野球に携わる

坊西浩嗣は引退後も四国アイランドリーグのコーチをやるなど堅実に野球に携わっているようです。

2005年に高知ファイティングドックスのコーチを務め、また選手としてはプロ野球選手OBがプロ野球のシーズンオフ中に行うプロ野球マスターズリーグでは福岡ドンタクズの選手として活躍(マスターリーグは札幌、東京、名古屋、大阪、福岡の5チームから構成されます)。2004ー2005年のシーズンで坊西浩嗣は首位打者に輝いています。※ちなみに現在はこのリーグは休止中です。

2008年からは社会人野球クラブである鳥取キタロウズのコーチ兼選手として登録していました。2010年からはスポーツ塾の野球コーチとして小・中学性の育成をしています。

坊西浩嗣は他にもラジオのコメンテーターをしたり、野球解説者を務めるなど野球に携わっており、はたから見たら野球バカなんじゃないかと思うほど、見ていて気持ちのいい野球好きっぷりを発揮してくれています!

投手

野村貴仁(オリ、巨人、ブルワーズ、日ハム)三菱重工三原硬式野球部|選手紹介

「野村貴仁」と聞くと、世代によって印象がガラリと変わってくると思います。現役を知っている人であれば速球が武器の投手でいいピッチャーだったと思うかもしれません。しかし現役を知らない人であれば、

「ああ、あの清原が捕まった時になんか言ってたおっさん?」と言うところでしょうか。

そんな野村貴仁について紹介したいと思います。

○手のつけられないピッチャーだった

野村貴仁はいろいろな意味で手のつけられないピッチャーでした。

1990年に三菱重工三原野球部での活躍が目に止まりオリックスからドラフト3位で指名され入団。1995年には37試合に登板し、防御率0.98というとんでもない成績を残しました。

しかしその年のオフに年俸に対してもめ、(オリックスの提示金額3900万円は低いと思った野村は6500万円を主張した)パリーグで初の参稼報酬調停を申請。結局3900万円が妥当ということで野村の主張は通りませんでした。

それでも腐ることなく1996年にリーグ優勝、日本一に貢献します。

しかも日本シリーズでは4試合に登板し、その登板した試合は全て勝利するなど、まさに広島ファンから言わせてみれば「神ってる」活躍だったと言っても過言ではないでしょう。

投手

97年は好不調の波が激しく、その年のオフに木田との交換トレードで巨人に入団します。

○ 社会人野球からメジャーリーグを経験した男

巨人時代は防御率こそ良かったものの、登板機会はあまりありませんでした。

2001年にはメジャーリーグに挑戦し、ブルワーズに入団するも結果を残せずマイナーリーグに降格。その後は一度も上がることなく2002年のオフに解雇されました。

プロ野球、メジャーリーグ、マイナーリーグを経験した野村貴仁は、その後日ハム、台湾の野球チームと歩き渡るも、輝きを放つことはありませんでした。

特に台湾でのチーム、誠泰では1試合にしかも登板しておらず、そこで彼の野球選手としての人生は終わりました。

2010年から野球教室を始めましたが、現在は誰も生徒がいないという状況であることが報道されました(恐らく今後余程のことがない限り生徒が来るということはないでしょう)。

○清原が捕まった時にメディアに映る

「野村貴仁と言ったら?」と聞かれ、プロ野球ファン以外、もしくは若い世代の人間だったらどっかで名前を聞いたことがあるようなという感じではないでしょうか。それは清原が麻薬所持で捕まった際に報道された人物だからです。

その際テレビに映っていて、「自分もやってた」と言っていたことからかなり信憑性が持てる感じはしました。本人もまだ薬をやっているんじゃないか?というくらいラリっていていきなり記者を歩かせて投球のできるところに連れて行きボールを投げ始めてしまいました(しかもキャッチャーがとれないような投球をしていました)。

裁判にでもなろうもんなら証言台に立つと豪語していましたが、呼ばれてもまともなことを言えないんじゃないかというのが私の感想でした。とはいえ今後もメディアがこの件で野村貴仁を取り上げることはあるのではないかと思います。

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角盈男(巨人、日ハム、ヤクルト)三菱重工三原硬式野球部|選手紹介

グラウンド内外でも人気を集めた角盈男(すみみつお)は意外にも高校や大学でなく社会人野球の三菱重工三原硬式野球部に所属していました。プロに入るといきなり新人王として活躍し、誰からも知られる存在となりました。引退後の人生も波乱万丈なものがありました。

○1年目からの活躍が凄かった!

角盈男がドラフトの目に留まったのは三菱重工三原の活躍もありますが、1976年の都市対抗野球で広島マツダの補強選手となり、広島マツダを準決勝進出へ導いたという活躍なくして語れなかったかもしれません。

その年巨人からドラフト3位の指名を受け晴れてプロ入りすることができました。

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1年目の結果は5勝7セーブ。ものすごく活躍したというわけではありませんが、新人の及第点以上の活躍だったこともあり新人王を獲得しました。

元々コントロールに不安を抱えた投手でしたが、サイドスローに転向することにより制球力を増し、1981年には8勝20セーブでリーグ優勝に大きく貢献。さらには最優秀救援投手の個人タイトルを獲得することも出来ました。

怪我などが重なり、クローザーからセットアッパーに変わったのですが、これはこれで成功!

「角ー鹿取ーサンチェ」

が流行語になるなど長きにわたって巨人にはなくてはならない存在でい続けました。

○その後日ハム、ヤクルトと移籍を重ねる

しかしずっと好調を維持できていたというわけではなく、1989年に日ハムに移籍することになります。

その際、日ハムの近藤監督が巨人の藤田監督頼み込んで実現。日ハムでは先発で起用され43試合に先発し、3完投をした。

日ハムでの活躍後92年にヤクルトに入団。ここで再びリリーフとなります。その年に優勝したのでまさに優勝請負人と言っても過言ではないかもしれませんね。

ところがなんとその年にあっさり引退。当時ヤクルトの監督は野村監督でしたが、その年に引退するとは思っていなかったようです。99セーブであっさり引退した角をもったいなく思っていました(知っていれば100セーブとらせてあげたかったみたいです)。そんな野村監督の思いとは裏腹に角はそこまで100セーブにはこだわっていなかったようですが……。

○引退後も壮絶だった

角は引退後の方が波乱万丈と言ってもいいかもしれません。

引退後は解説が決まっていましたが、バブル崩壊の影響を受け放映が少なくなったため、太田プロダクションに所属。

95年にはヤクルトの投手コーチに、97年には巨人の投手コーチになります。

現在はタレント、評論家として生計を立てており、ブログはほぼ毎日のように公開していて野球教室、講演活動を積極的に行っているようです。「角盈男が行く!ご当地ラーメン紀行」は高い評価を得ていてレビューが好評です。

このように引退後もタレントとして充実しているかのように見える角盈男の人生ですが、2014年に前立腺がんであることを告白。離婚も一度経験しています。しかも養育費、慰謝料の額が1億円超だという報道もありました。

それでも二人の息子がいて二人とも野球をしているため、夢がその子たちがプロになって野球を観戦することだという親の顔も多々見られます。

2013年には都市対抗野球の始球式に登板していたようです。角盈男はプロ野球選手だったという印象が強いですが、この映像を見ると、社会人野球出身だったことが実感できますね。

パワーヒッター

簑田浩二(阪急、巨人)三菱重工三原硬式野球部|選手紹介

簑田浩二と言うプロ野球選手をご存知でしょうか?最近簑田と言う字をどこかで見たことあるようなと思うプロ野球ファンは少なくないと思います。しかしどこで見たんだっけ?という人も多いでしょう。ここではそんな簑田浩二さんについて紹介したいと思います。

○どこで見たんだっけ?

簑田浩二は元阪急ブレーブス、読売ジャイアンツで活躍していた選手ですが、かなり面白い経歴の持ち主です。

最近この簑田浩二選手の名前をちらっと目にする事がありませんでしたか?

それはきっと2015年にヤクルトの山田選手とソフトバンクの柳田選手が達成したトリプルスリー(山田選手は2016年も間違いなく達成しますが)に簑田浩二も名を連ねているからではないかと思います。

簑田浩二は当時史上四人目のトリプルスリー達成者だったわけですが、彼は高校からいきなりプロに行ったというわけではありません。大学でもなく、社会人野球で実力を磨きました。

甲子園とは縁がなかった簑田浩二は高校卒業後三菱重工三原に入社し一度南海ホークスからドラフト指名を受けるものの、

「プロ野球に興味はない」

と断りました。

これかなりすごくないですか?

甲子園に出ずに三菱重工三原野球部に入ったという経緯も大きいのでしょうが、プロを目指している者達からしたら、

「え〜?」

というような感じでしょう(簑田は自信がなかったようですが)。

しかしその後も簑田浩二は三菱重工三原でプレーを続け、3年後の1976年に阪急ブレーブスからドラフトにかかり入団する事になります。

広島東洋カープのファンだった簑田浩二にとっては、

「複雑だった」

というあまりにも肝が座った回答を残しました。

その性格が生きているのでしょう。1977年の日本シリーズでは9回2死の状態で盗塁。そう、WBCで鳥谷がやった伝説のプレーと全く同じ事をしていたのです。

オールスターで初めてホームスチールをしたり、ホームランで1点取るより、クロスプレーで1点防ぐ方が楽しみを見出せるなど、簑田浩二独特の野球勘を持っているようです。

○走攻守そろったパワーヒッター

パワーヒッター

特に強肩ではないのに捕殺が多かった簑田浩二。これにも彼独自の見解があり、

「重要なのは守備位置を考えること」

と言っています。肩が強くないという弱みをポジショニングという強みでカバーし守備で大きく貢献していました。

そして1980年に簑田浩二は31本塁打、39盗塁、31犠打を達成しています。

当時の犠打の成功率が如何なものかはちょっと分かりませんが、成功率が100%だとしても39回も犠打をさせているというわけです。

三十本以上のホームランを打つ選手にですよ?

走攻守、に加えパワーも技術も兼ね揃えた簑田浩二。野球のゲームでいたら真っ先に取りたくなる選手ですよね。長打力もあるし足も速い、小技もある。相手としても絶対敵に回したくないタイプだと思います。

○簑田はプロゴルファーとしても活躍している

簑田浩二のプロでのキャリアは、その後読売ジャイアンツに入団するも2年で終了。引退後は読売ジャイアンツのコーチに就任しました。

95年にコーチを辞め解説者を務めたのですが、なんとプロゴルフの資格も持っているようです。レッスンプロという形ではありますがゴルフの方でも活躍されています。

とにかく普通じゃない簑田浩二選手。調べれば調べるほど面白いものが出てきますよ。プロ野球史に残る変わり者、簑田浩二。彼の生き様は最高です!

ボール

田中由郎(ロッテ、大洋)三菱重工三原硬式野球部|選手紹介

田中由郎(たなかよしお)は三菱重工三原硬式野球部からプロ野球選手となりました。

同じ三菱重工三原硬式野球部からから簑田浩二と同じ年にプロ野球選手になったわけですが、簑田は阪急にドラフト2位で入団したのに対し、田中由郎はロッテにドラフト1位で指名されてのプロスタートとなったのです。

○田中由郎は山内新一に次ぐピッチャーでのプロ入団

三菱重工三原硬式野球部から初めてプロ野球選手が誕生したのは1967年。それから8年もの間三菱重工三原硬式野球部からはプロ野球選手が輩出されませんでした。

しかし8年ぶりのプロ野球選手は二人同時という嬉しい知らせでした。

一人は田中由郎(これで「よしろう」ではなく「よしお」と読みます。そして田中義雄元阪神監督とは違いますのでごっちゃにならないでください)。

そしてもう一人は簑田浩二。プロ野球選手の実績という面で言ったら簑田浩二の方が田中由郎圧倒的にすごく、簑田浩二を知らないプロ野球ファンは当時少なかったでしょうが、プロ野球選手としての田中由郎を知っている人はあまりいなかったのではないでしょうか。

それでも入団当時はピッチャーということも要因かもしれませんが、簑田浩二のドラフト2位指名(阪急ブレーブス)に対し、田中由郎のドラフト1位(ロッテオリオンズ)と期待値は田中由郎が勝っていました!

○田中の高校時代の実績は大したことない?

三菱重工三原野球部に入る選手は、高校時代に大した成績を収めていない選手が結構多いです。また傾向として、中国地方の選手が多いです。

田中由郎は鳥取県出身だったのですが、鳥取大会で準々決勝で負けています。

「準々決勝ならそこそこいいところまで行ったんじゃないの?」

と思うかもしれませんが、神奈川や大阪の準々決勝とはわけが違いますよ!学校数が少ないから2回戦とか3回戦とかの話です。

それでも社会人野球でもまれ2年後にはドラフト1位でロッテオリオンズに入団したのです。

○めちゃくちゃ期待されて入団したものの…

田中由郎は選手としての実績はイマイチでしたが、一番インパクトを与えることができたのはこのドラフト会議だと思います。

元々ロッテは田中を一位指名する気は無かったようです。違う選手をドラフト1位候補にしていたのですが、急遽当時スカウト部長だった濃人渉(のうにんわたる)が田中由郎の1位指名を譲らなかったといわれています。その際田中由郎が活躍しなかったら責任を取るといったようですが、本当に活躍しなくて責任を取った(職を辞任した)というエピソードがあります。

田中由郎はアンダースローだったためそこにひかれたのが一番の理由だと考えられますが、濃人渉自身、広島県出身で三菱重工三原硬式野球部も広島のため、そう言った個人的な期待もあったのかもしれません。いずれにせよ田中由郎がプロ野球選手として最も注目を浴びたのは間違いなくこの時でしょう。

 

○ロッテから大洋へ

田中由郎はロッテ時代は特にこれといった成績を残せず大洋へトレードする形となりました。大洋では規定投球回数に到達したものの1979年には与四球が最も多い投手になってしまいました。逆を言えばこれくらいしか際立った記録がないため、不幸中の幸いというべきかもしれませんね。

ピッチャー

山内新一(巨人、南海、阪神)三菱重工三原硬式野球部|選手紹介

山内新一と言う投手をご存知でしょうか。

もしかしたら知らないという野球ファンもいるかもしれませんが、時代が時代ならものすごい偉業を成し得たピッチャーだったかもしれません。

ここでは、少しでも山内投手の功績について語れたらと思います。

ピッチャー

○順風満帆とは言えなかった山内新一は苦労しながらプロに入った

山内新一投手は非凡な才能を持っていたものの楽にプロの門を叩いた訳ではありませんでした。三菱重工三原に入社し、都市対抗野球大会の準々決勝に進出するもリリーフした試合で負けてしまいます。ところがいいピッチングをしたため翌年の1967年、巨人からドラフト2位指名を受けます。

山内新一は68年は一軍での登板がなかったものの69年から一軍で起用されることになりました。そして70年では主に中継ぎで起用されることになり8勝を記録し、そのポジションを確固たるものとしました。

が、72年には怪我に苦しみ73年には南海へトレード要員として出されてしまいます。

ところが、結果的に言うとこのトレードが大当たりでした。

トレード先の南海にいたのは野村克也監督。野村監督は山内新一の制球力に目をつけ復活させることに成功しました。その年にはなんと山内は20勝も挙げ南海をリーグ制覇に導きました。中でも外角へのスライダーは相手バッターを翻弄する最強の武器となっていました。

ここからは私の推測ですが、野村監督は伊藤が最強のスライダーを投げられるように育て上げたのは、山内新一からなんらかのヒントを得たからではないかと思っています。

○南海の黄金時代を支えたエース

山内新一は以後南海のエースとして君臨し76年にも20勝を挙げるというものすごい実績を残しました。にもかかわらず、実は最多投手に輝いたことはありませんでした。なぜなら鈴木啓示、山本久志、村田兆治、東尾修といったもしかしたら歴代最強と言っても過言ではないの投手人をパリーグが備えていたためです。

野村監督も山内新一が最多投手を取れなかったことに関して、

「時代のせい」

としています。偉業を残した割には山内新一という選手の知名度が低いというのは、こうした最強世代に組み込まれた「好投手」だったからではないでしょうか。(村田兆治や東尾修は好投手を飛び越して化け物と言っていいくらいですからね)

いずれにせよ山内は言ってみれば「好投手団塊の世代」に組み込まれていたため損をしていたわけです。

○山内はちょくちょく面白いところにも顔を出している

山内新一に限って言えばちょっとライトなエピソードも兼ね揃えています。

例えば「野村再生工場」という言葉ができたのはこの山内の力が大きいのです。勝てなくなった山本をいきなり20勝投手に押し上げたことが最大の要因だからです。

また81年には山内和宏、山内孝徳が入団し、山内新一とあわせて山内トリオとして組み込まれました。ベテランエースなのにこのトリオに組み込まれるあたり周囲の人からも愛されていたのが伺えます。

しかもギャグなのかなんなのか、この三人は背番号が18番、19番、20番(山内新一は20番)と連番にされるくらいです。

とにかくいろんな面で影響を及ぼしている山内新一。面白いのは84年に阪神に移籍し、85年にも在籍していたが登板は5試合のみでした。その年で引退しましたが、運いいことに優勝メンバーには名を残しています。

個人としてはタイトルとは縁のなかった山内新一ですが、チームとして見るならいい野球人生だったと言えるのではないでしょうか。

投手

三菱重工三原硬式野球部の歴史~創設から解散まで

「三菱重工三原硬式野球部」をご存知ですか?惜しまれつつも2014年に解散となりましたが、社会人野球の中堅チームとして広く知られ、巨人の蓑田、ヤクルトの角盈男、野村貴仁らプロ選手を多数輩出した優秀なチームでもありました。そんな「三菱重工三原硬式野球部」の歴史と、プロ野球選手になった代表的な選手を紹介します。

○三菱重工三原硬式野球部の功績について

三菱重工三原硬式野球部は広島県三原市に本拠地を置き、簑田浩二や角盈男(みつお)投手などのプロ野球選手を多数輩出しました。投手

そのため三菱重工三原硬式野球部は、さぞ超強豪チームと思われがちですが、実はそこまで輝かしい成績を放っていたというわけではありません。

都市対抗野球大会の出場は5回で最高成績はベスト8、日本選手権は1982年に一度出場して初戦敗退とタイトルを取ったことはありません。

チームも中日本重工業三原、新三菱重工三原、三菱三原硬式野球クラブに改称されたり、クラブチームになったりと決して順風満帆なチーム状況と言える状況ではありませんでした。

そして2014年2月13日都市対抗野球の予選でJR西日本を敗れたのを最後に、部員数の減少により三ヶ月後に三菱重工三原硬式野球部を解散すると発表しました。残念とは言え、企業チームと言うのは母体である会社が全てなのでしょうがないといえばしょうがない結果と言えるでしょう。

Youtubeなどで検索しても映像などもあまり残っていないようですが、いくつか残っているものの中から、当時のユニフォームのデザインなどを知ることができます。

○ちょっと面白い三菱重工三原硬式野球部のデータ

三菱重工三原硬式野球部は簑田浩二、角盈男をはじめとして八人のプロ野球選手を輩出してきました。

そして広島のチームということで、JABA広島大会でファームと対戦するなど、他チームより広島の東洋カープとの交流が多くありました。そのため広島東洋カープの首脳陣の目にさらされることが多いのにもかかわらず、なんと広島のチームにドラフトがかかった選手が一人もいなかったというのですから驚きです。

もっと地元のプロ野球チームが、地元の社会人野球のスカウティングを強化していたら、三菱重工三原硬式野球部からプロ野球選手を二桁は輩出していたことでしょう。

そしてプロで大活躍した簑田浩二、角盈男、野村貴仁らはいずれもドラフトが1位指名ではありません。そのことからドラフト時には今ひとつ輝き切れていなかったものがちょっとしたきっかけで大器に成長することがあるのでしょう。

三菱重工三原硬式野球部だけでなく社会人リーグと言うものがダイヤの原石がゴロゴロしている場所なのかもしれませんね。

○「三菱重工広島硬式野球部」とは違う

三菱重工は同じ広島に「三菱重工広島硬式野球部」を持っていました。「三菱重工三原硬式野球部」と「三菱重工広島硬式野球部」二つのチームを広島の方も強豪で切磋琢磨していたと言えば聞こえはいいですが、二つのチームを合併させてもっと上を目指すという選択肢もあったのではないかと思います。

しかしなぜか統合するということはせず、別チームで練習や公式試合を行っています。

さらに、

「じゃあ広島に二つの野球部があったということから、母体である三菱重工は広島の会社なの?」

と思ってしまいますが、それもまた違うのです。

なぜ広島に2チームの野球部を設けていたのかは謎ですが、何か狙いがあったのは明白でしょう。(単に同じ地域に野球部を設けることによって競い合って強くするという考えだけではなさそう。)

とにかく謎が多い広島に2チームという状態なので、「三菱重工三原硬式野球部」と「三菱重工広島硬式野球部」が同一チームだと混同しないようにして下さい。